福岡地方裁判所飯塚支部 昭和44年(わ)2号 判決 1969年4月08日
主文
被告人を懲役三年に処する。
但し、この裁判確定の日から三年間右刑の執行を猶予する。
押収してある刺身包丁一本(昭和四四年押第七号)を没収する。
訴訟費用は被告人の負担とする。
理由
(罪となるべき事実)
被告人は、実母重松セキ子と同居している実兄重松信行(当時三七才)が性粗暴で日頃母に対して暴行を加え、暴言を吐くなどの振舞に出でていたため、かねてより同人に不満の念を抱き且つはこれを苦慮していたものであるが、昭和四三年一二月二九日午前一一時三〇分頃、同人が些細なことから母や被告人等を殴打し、更にその後母に対して「死んでしまえ」などと悪口をいつたのを聞くに及び、同日午後〇時二〇分頃直方市大字下境日焼の右信行方に赴き、同人に対し、母に対する右のような粗暴な言動を慎むよう難詰し、「母を苛めるならこの家から出て行つてくれ」といつて帰りかけた際、これに立腹した同人から同家六畳の間において「なめたことを云うな」と怒鳴りつけられたうえ、いきなり顔面を数回殴打され、更に投げ倒されて胸部を数回足蹴りにするなどの暴行を受けたため、咄嗟に刺身包丁(刃体の長さ一七糎、昭和四四年押第七号)を同間のタンスの上に置いていたのを思い出し、これをもつて同人に対峙すれば、同人が怖れて右暴行をやめるものと考え、右包丁を取り出して突き付けたところ、同人がこれに怯むことなく却つて立向つて来て右包丁を握つている被告人の両手首を掴えたため、互に揉み合いとなるうち、右包丁で同人の左胸部を二回突き刺し、よつて同人を左肺動静脈切断による出血のため、即死するに至らしめたものである。
(証拠の標目)
一、証人重松セキ子、同山中フサヱ、同重松藤子の当公判廷における各供述
一、重松セキ子の司法警察員に対する、山中フサヱの司法巡査に対する各供述調書
一、医師西尾一三作成の死体検案書
一、医師山崎慶二郎作成の鑑定書
一、司法警察員作成の実況見分調書
一、司法巡査作成の写真撮影報告書(死体を撮影したもの)
一、被告人の当公判廷における供述
一、被告人の司法警察員(二通)及び検察官に対する各供述調書
一、押収してある刺身包丁一本(昭和四四年押第七号)
(法令の適用)
被告人の判示所為は刑法二〇五条一項に該当するので、所定刑期の範囲内で被告人を懲役三年に処すべきところ、記録によれば被告人は実兄重松信行と異り、生来親思いのおとなしい性格で粗暴な同人の母親に対する日頃の冷遇や虐待と自己や弟妹に対する理不尽な暴力沙汰とに対し、かねて不快の念を抱き苦慮していたものの、同人に対し未だ嘗て反抗的態度に出たことはなかつたところ、同日母より同人が死んでしまえと言つたと訴えられるに及んで母子兄弟間の親和を図るため、右信行の粗暴な言動を改めさせんものと同人のもとに赴いたところ却つて同人から生意気だとしてひどい暴行を受けたために、腕力においては遙かに同人に劣り、右暴行を素手で制止することは不可能と思い、脅す積りで咄嗟に傍のタンスの上に置いていた前記刺身包丁を取り出して突き付けたところ、案に相違し、同人が却つて立向つて来たので、揉み合ううち思わず同人を突き刺すに至つたもので、その直後思いもかけない結果に気づくや、被告人はその死体に取りすがつて「兄貴、すまなかつた、刺す気はなかつたのだ」と慟哭する程であつたが、その後前非を悔いて同人の残された一子の親代りとなつて立派に育成して行くことを誓つており、またこれまでに前科もなく善良な市民として過してきたことが認められるから、これらの事情を斟酌するとき、被告人に対しては刑の執行を猶予するのを相当と認め、同法二五条一項により本裁判確定の日から三年間右刑の執行を猶予し、押収してある刺身包丁一本(昭和四四年押第七号)は判示犯行の用に供した物で犯人以外の者に属しないから、同法一九条一項二号二項を適用してこれを没収し、訴訟費用については刑事訴訟法一八一条本文を適用して被告人に負担させることとする。
よつて主文のとおり判決する。